真言宗御室派 蓮土山 道明寺

      2017/01/24

土師氏

垂仁天皇(在位=3世紀後半から4世紀始め)の叔父の倭彦命が亡くなられたとき、近習の者を集め、生きたままで陵の周りに埋められた。天皇は彼らのうめき声に心を痛め、それ以後殉死を禁止した。その後、皇后の日葉酢媛命が亡くなったとき、野見宿禰(のみのすくね)は人や馬を形どった埴輪を作り、人に替えて陵墓に立てることを献策した。天皇は大いに喜び、埴輪を作ることを命じた。野見宿禰は出雲から土部百人を呼んで埴輪を作り、日葉酢媛命の墓に立てた。この功績により、野見宿禰は土師の職に任じられ、その曾孫の代には仁徳天皇より「土師」の姓を与えられた。
(日本書紀巻第六:垂仁天皇)

写真は道明寺より徒歩5分の仲津姫陵。(上の地図 左手の古墳)

 

道明寺の歴史

土師氏一族は本拠地を“土師”の里に構え、氏神として祖先を祭神する土師神社(道明寺天満宮の前身)を祭り、4世紀末から約150年の間に、応神天皇陵など大型前方後円墳6基を含む123基もの古市古墳群を築造、代々天皇の葬儀を司る豪族として隆盛を誇った。また6世紀に仏教信仰が広まり、地方豪族が競って寺院を建立すると、土師氏もこの流れに沿って菩提寺である土師寺(道明寺の前身)を建立(594年)した。

しかし、大化の改新(645年)によるの薄葬令の発布、仏教信仰による火葬が普及すると、土師氏の仕事は激減、一族は衰退の一途を辿ることになった。


もともとは四天王寺式の壮大な伽藍配置。

 


戦国時代の兵火や江戸時代の洪水による荒廃で、道明寺天満宮の境内地に移り、さらに明治初年の神仏分離により天満宮と東高野街道を隔てた現在の地に移った。

 

ところが、桓武天皇の誕生(781年)により、その立場が一変する。桓武天皇の祖母が土師氏の出身であったという縁により、土師(葬儀屋のイメージ)の改称を朝廷に願い、一族に菅原氏・大江氏・秋篠氏が賜姓され、中央政界で活躍の場が与えられた。
この改称3世代目にあたるのが、学問の神様、天神様で有名な「菅原道真」である。
道真は詩文・和歌・歴史など学問に通じ、早くから朝廷に仕えて重要な仕事に携わり、宇多天皇の厚い信頼を得て右大臣にまで昇りつめるが、家格を超えて大臣に昇るという破格の昇進に対し、時の左大臣・藤原時平の妬みをかい、九州大宰府へ左遷されてしまう。その際、道真は土師寺に叔母の覚寿尼を訪ね、

「鳴けばこそ別れも憂けれ鶏の音のなからん里の暁もかな」
「鶏が鳴いてしまうからこそ、別れを急ぐことになってしまう。夜明けにその声が聞こえない里であればどんなによいであろうか」

と詠み、別れを惜しんだと伝えられる。

903年に左遷先の大宰府で死去すると、京の都では雷、大火、疫病などの天変地異が相次ぐ。特に清涼殿への落雷で大納言・藤原清貫ら左遷に関わったとされる者たちが相次いで亡くなると、道真の祟りと恐れられ、雷の神である天神(火雷神)と考えられるようになった。


道長の没後、土師寺は道真の号(文人としての別名)である「道明」にちなんで、「道明寺」と改められた。

ご本尊

国宝 木造十一面観音立像
ご本尊の十一面観音菩薩立像は、像高1メートル、檜の一本造。表面は、彩色や漆箔にせず、頭髪、眼、唇等にわずかに絵具を挿しただけで、あとは木肌のまま仕上げた檀像彫刻。檀像とは、元来白檀のような香木を用いた彫像であり、香りを消滅させないために素地のまま仕上げているのが特徴。しかしわが国では、香木の入手が容易でないことから良質の檜材を用いて代用する場合が多く、本像もその好例。本像の表面は小豆色で光沢があるため見落としがちだが、素地の木肌は緻密で美しいことが特徴。本像の製作年代は9世紀、道真公生存年代と推定されているが、未だ諸説があり判然としていない。昭和27年国宝に指定。
毎月18日と25日が御開帳。厨子前の触れれる距離でご拝観できる。

ご本尊写真はhttp://blog.livedoor.jp/konnnatv/archives/27251566.htmlより拝借。

重要文化財
木造十一面観音立像
木造聖徳太子立像

蓮土山 道明寺
所在地:大阪府藤井寺市道明寺1-14-31
アクセス:電車=近鉄南大阪線 準急 「土師ノ里」「道明寺」駅 徒歩7分
車=西名阪道藤井寺ICから10分
拝観時間:9時~16時
拝観料:毎月18、25日のご本尊開扉日のみ 500円
公式サイト:http://www.domyoji.jp/index.html

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